5月11日(日)椿の海と水城サミット2025 in Chibaのイベントである椿の海と水城等をめぐる講演会とパネルデスカッション及び八日市場城ミニツアーが当団体主催、匝瑳城郭保存活用会共催にて匝瑳市の福善寺を会場として、開催されました。
午前10時から行われた福善寺をスタート場所とする八日市場城ミニツアーは、定員をオーバーする22名の参加者があり、約1時間30分に亘り当団体代表案内の下、非常に良く戦国期の城郭遺構が残る八日市場城を周辺と合わせて見学し、いにしえ気分を満喫するツアーとなりました。


13:00からは、福善寺にて当団体代表による椿の海と八日市場周辺との関連性に関して城郭をベースとした講演が行われました。この中で当団体代表より、椿の海と八日市場周辺が掲載されている現在船橋西図書館に所蔵される下総之国図については、江戸初期作成のものと説明されているが、当該国図と八日市場周辺の村名を比較すると関東の戦国時代が終わった1590年の小田原の役以前の村名がこの国図には掲載されており、ここより当該国図の成立は戦国期末まで遡れると推測されることが主張されました。そして、当該国図には椿の海は太田の胡水と載っているが、湖畔には椿村が掲載されており、少なくとも椿村は椿の海の湖沼名から影響されて村名がついたものでないことがわかるとし、むしろ子細に調査すると椿村は八日市場とも浜堤間の潟湖により、水運でつながるとともに椿の海の西岸・・南岸をめぐる街道と椿の海・八日市場水運がクロスする湖畔の重要な湊であったと評価され、それを守る水城として、直上に椿城が占地したのではないか、だとすれば、椿の海と言う名称はこの湖畔の重要な湊町であった椿村から江戸時代になってから名称化されたのではないかという説が披露されました。こののち、関係者によるパネルデスカッションが行われ、匝瑳市文化財審議委員であり匝瑳城郭保存活用会の顧問でもある依知川雅一氏からは椿村のそもそもの村名の由来が説明されるとともに、香取市教育委員会の鬼澤昭夫氏からは香取市の黒部川水系の遺跡から内陸太平洋海運によって運ばれたと思われる遺物が出てきており今後の展開が面白くなってきているということが報告されました。 当日の講演会及びパネルディスカッションの模様については、5月17日付の東京新聞にも、記事として報道がされております。
